ひたすら長いカメルーンの結婚式を撮影している。
結婚式っていっても、日本みたいに業者が仕切ってホテルで披露宴をおこなう形式ってのは、一般の人にとっては、あんまないと思う。
自分の参加した結婚式も、新郎の地元の村で、一族やら近所の人やらが手作りでおこなう質素なものだ。質素ってのは、場所やら料理を必要以上に贅沢にはしないっていうことで、
テンション的には盛大だ。
あまりにテンションの高い招待客は、昼から始まった式が朝の6時に終わるまで
盛大に踊りまくっている。わたくしは夜の1時でダウン。
モノ的に贅沢ではないアフリカでは、高いテンションと、歌と踊りで、祝い事を祝う。あとは、ふだん食ってるメシが大盛りになるのと、伝統的なヤシ酒がふるまわれるってもんだ。
そんな素朴で伝統的な村の結婚式のようすを撮影していて、一番興味深かったのは、古老たちによる夜の儀式だった。
夕方の教会での式が終わって新郎の自宅に戻ってくると夜の8時になっている。
村に街灯はないから、もう外はとっぷりと暗い。折りしも満月の夜だったから、暗いといっても、道も人も見えるくらいには明るい。
すると、前触れもなく、シャーマンっぽい婆さんを先頭に、女性たちが民族的な衣装で一列になってやってきた。シャーマン婆さんはすごいオーラを放ってるし、民族的な歌を口ずさんでるのだが、これもまた異世界な雰囲気を醸し出しているではないか。
民族的な歌って、説明しにくいけど、ゆったりしたリズムで同じ節を繰り返す的な、大阪の民俗学博物館とかの映像で見る、ああいうのだ。
これはしめた。
始まりましたよ。
瞬間、久米明のナレーションが頭をよぎった。
それって「すばらしい世界旅行」っていう日曜の7時半の番組のことだ。子どもの頃に見ていた。世界各地を訪ねる紀行ドキュメンタリーで、毎回世界の原住民たちの祭りやら儀式やらが紹介されて、子ども心に強烈なインパクトがあった。
自分も、世界各地を訪ねてルポルタージュを作ってみたいってのを夢見たのはその頃からだった。いや、今思っただけだけど。
だけど、なんか漠然とそんなのにたぶん子どものころからあこがれがあったので、そういう伝統的な光景をいま目の前に撮影している、ってのがちょっと自分の中で感動的だ。
ちなみに自分も前に何回か「すばらしい世界旅行」のカメラマンと仕事をしたことがあって、「ええー!?あの番組のカメラマンさんですか!?」と感激したものだ。
★★★
儀式は、庭に穴を掘って木を植えるってだけのものだ。「この木なんの木?」って聞いたら、バナナの木だそうだ。子だくさんを願うとかそんなことだろうと思う。
儀式が終わって感動にひたっていたのだが、よく見ると、シャーマンの隣のおばちゃんが手にハンドバックを持ってるのが目についてあれっ?って思う。
民族衣装にハンドバックって、似合わないこと、はなはだしい。
と思ってると、おばちゃんが「さあ、トラディショナルな時間は終わりだよ。
中でダンスが始まるよ。」てなことを軽く言う。
なんですか。なんか突き放された感。
このトラディショナルな儀式は、現在進行形で本気でやっている、のではなく、昔のことを慣習として残しているだけのものなんでしょう。ということが分かってしまった。
日本でも、たとえば家を建てる前に神主がきて、ひとしきりお祓いしたあとに苗木を植える儀式を今もやってるってのと同じレベルだった。
まあ、そんなものかもしれないな。がっかりもしませんが、もはや、世界は、どこに行っても、
グローバルなスタンダードになっているんだな。
伝統的なものが残っているかどうかは、ちょっと濃いめかちょっと薄めかだけの差だ。
むかし前の会社の上司と紀行番組の話をしたときに、その人は「反実仮想だよ」ってさらっと言った。
難しいこと言う。
分かんないから「反実仮想ってなんですか」って聞いたら、「本当はもうないんだけど、こうであったらいいのになー、っていう思いを映像化しているんだ」だと。
もう長くなるからアレですが、年月を経るたび身につまされることが多い。この間ドロボウが捕まった話で「映像は嘘をつく」って書いた。嘘も方便で成立することは悪いことでもないと思うけど、今回のことでああ、現代に「すばらしい世界旅行」は、もうないんだな、って思った。
→ ドロボウが捕まった町の様子は暴動のようだった
「町のドロボウがつかまった」
→ カメルーンのテレビ局での活動の足跡は
「青年海外協力隊/とほカメラ」
*初出:2013年12月14日(土)(カメルーン滞在166日目)