小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎の親戚たち■
親戚が久しぶりに田舎に集まる。
田舎のばあちゃんが死んだからだ。
97歳なのでもはやそう悲しいということでもない。
明野村のばあちゃんの家に着いて部屋に入ると、すでにみっしり親戚が集まっているのだが、「この寄合はカメルーンくさいな。。」と直感する→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎のカメルーンたち■
カメルーンでは、いろんなタイプの寄合に招かれた。
ガイジンも招いてくれるっていう文化があったのだ。
平均的な寄合の経験から行くと、
一番の特徴は
「ムダに人が多い」ということだ。
「時間も長い」
さらに言うと「もはや寄合そのものがムダなんじゃないか!?」→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいなカメルーンの仲間たち■
カメルーンのゆかいな仲間たちは
葬式であれ、新年の集いであれ
「誰が誰なのかよくわからん」ってほど人が沸いて出て、
それぞれ役割があるわけでもなく「ただその場所にいる」ことが一番の役割のように見えた。
そしてとうとう最後まで、
「この人誰だかさっぱりわかんなかったなー」
と終わるのだった→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎たち■
そんな集まりに象徴されるような日々を、
おおむね自分は「非生産的だなあ」と思ってきたし、
まあ、今も思ってる。
そしてそれが「日本とは違う途上国の特徴なのだ」と思ってきた。
ところが、このばあちゃんが死んだ親戚の集まりの様子を見て→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎たち■
これは「途上国の特徴」なんじゃなくて「田舎の特徴」なのだ
ってことが分かった。
ばあちゃんの話に戻ると、今回の葬式の仕切り役は、自分より3つくらい上のいとこが務める。まだ若い。
集まったメンバーには年寄りが多い→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎たち■
うちのオヤジを含めて、オジさんたちがうわーっと
いろんなことをアドバイスしている。
これは、お互いが知っていることを少しずつ持ち寄って
「古いこと関係」とか「遠い親戚が誰だ」とか、情報がパズルのように伝達されるという仕組みだ。
中には曖昧なこともある。
その場合は、その場に集まった人の合意によって
「まあ、こういうことにしておけ」と落ち着くのだった→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎たち■
だから、役割はなくても「合意しましたよ」ってことの
そのために、「ただそこにいること、そのもの」が重要なのだった。
「ただそこにいる」
禅みたいになってきた。
まあそういうことで、この寄合は大人数でもってモールのようにゆっくりと物事が進行していった→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎の禅的な何か■
ふと思うと、これはとても「日本的である」のかもしれない。
カメルーンでも同じような状況にどっぷり浸かっていた
にもかかわらず「日本的だなあ」とは思わなかったのは、
自分は都会暮らしが長く、田舎の作法をよく分かっていなかったからだった→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな田舎のお作法■
だから「カメルーン的だなあ」とか「途上国的だなあ」と思っていたことは、今にすると意外に日本と同じだったのかもな、と思う。
長く住んでいると「カメルーン人と日本人の性格の違い」が顕著に分かるので「同じ人類だけど全然違うなあ」と思ってたけど→
小野ヒロフミ @onokatekin · 12月22日
■今日のゆかいな人類みな兄弟■
実はその行動パターンにおいて「同じことが多い」っていう
当たり前の結論に、
3周くらい回ってまた戻ってきたのだった。
そして、たぶんこの先も何周も回っていくんだろうなあ
ということを、予感した。
→一人暮らしの実家に大雪が降る
(写真=小淵沢と小諸を結ぶJR「小海線」からの冬の車窓は空気が澄んですがすがしく、ばあちゃんが死ぬのにもってこいの日よりだ)
→青年海外協力隊の体験を小学生に説明する
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→コジキに会えば金をやり 会わなければ金をやらない協力隊
→青年海外協力隊的あるある 1年して絶望で寝込む
→青年海外協力隊的あるある 1年6ヶ月 アンテナ立て国際放送見る
*初出:2015年12月22日