アフリカ人はテレビの中に部族の太鼓の音を聞く

「激レアさん。」の出演依頼が来た時に、この複雑なアフリカ・テレビ体験をどうしたら説明できるのかと考えていた。

担当ディレクターは真面目に仕事に取り組む人だったが、編集会議では「アフリカのテレビって何が人気あるんだ、動物の映像とか人気あるんじゃないのか。うまそうだ、とか言って。わはは。その辺面白い話ないのか。」と言われたそうで、たいへん困り顔をしていた。

アフリカ人が野生の動物の「映像」を見て腹をすかせてよだれを垂らすかは知らんけど、その発想はいかにもストレートすぎるだろ。だけど、もし自分がディレクターでも同じような発想しちゃうと思う。むしろ今回は、「テレビが社会的にどう入り込んできたかによって、まったく別の受容の仕方をする」という話にしたい。

■■■マクルーハンの「部族テレビ」


ちょうど図書館で『グーテンベルクの銀河系』を読んで(この本は高くて買えない)、アフリカの部族の人たちがテレビを見た時のエピソードがあった。先進国の人が機械の使い方の手順を映像で現地の人に見せて「これ見れば便利だろ」って言ったら、現地の人はその映像が「ハウトゥー」を表わすということが、理解できなかった。時間軸に従って、編集して順番に物事を説明するという概念がなかったのだ。そんで、どこかのカットに動物が映りこんでいたことを口ぐちに指摘して「そういえば、あそこに動物が映ってたなー」「あ、俺もそれ気になったな」「それな」と盛り上がったのだった。

この話は、最初の「動物うまそう」ってのとすごく似てる。先進国人がテレビの見方を ”知ってる” のに比べて、途上国人はテレビの見方を知らないので、全然見るべきところじゃない部分を注目するのが「滑稽だ」って話だ。ただここで注意したいのは、先進国人の「テレビの見方」というのは最初から決まっていたわけではなく、社会の流れの中で創り出されたもので絶対的なものでないということだ。たまたま共通する文化のコードで読むから自然に解読できるにすぎないので、それをいったんほどいて、別のコードで解読してみると、テレビのポテンシャルというか未来に必要かもしれないテレビの別の楽しみ方も見えてくるのかもしんない。

■■■「ラジオ」の音に囲まれる生活


自分のいたカメルーンの人たちの話で言うと、熱心にラジオは聞く。都市の移動のバスの中でもラジオで音楽やトークを聞くし、農作業しながらも聞く。首都でホームステイしていた時、お父さんは軍に勤めていてお母さん教師というアッパーな家柄だったが、お父さんはずーーっとラジオのニュースを聞いていた。子どもたちが「テレビ見たい、見たい」というと怒る。昭和か。

なので、子どもとお母さんは、お父さんがいない隙をみはからっては、DVDで映画を見たりアニメの「ナルト」を見たりするのだった。

「カメルーンのアニメはアクション重視」(2013.7.29)

「カメルーンのライブ放送はドリフかよ」(2013.8.3)

日々のニュースを知るのはもちろん、もう一つカメルーンの人たちは、人の声や音楽が連続性をもって続いていくことに、強い信頼を寄せているようにも見える。

このお父さんは夜中、ラジオを一晩中消さずにつけていて「防犯になる」のだと言う。

また別の人の話だが、去年ドキュメンタリー取材の時に泊まっていた人の家では、寝る時に携帯ラジオを枕元に置いて、寝入るまでニュースの声を聞いていた。 子守唄か。

その人はジャーナリストで、本人は「いかなる時でもニュースを聞いて情報を仕入れなければならない」と言うが、実際には流しっぱなしで聞いてないことが多い。この2人に限らず、多くの人は、ふだんから言葉を聞くよりも音の洪水の中に浸っているのが好きだ。ラジオを聞かない時は、大音量で音楽をかけている。

それでほとんど用事が足りているので、各家庭にテレビがあってもミュージック・クリップを付けっぱなしにするくらいしかテレビに期待してないというのが実情だ。だからディレクターから「何の番組が人気ありますか?」って言われた時に、「うーんミュージック・クリップかな」としか答えようがなく、納得いかない顔をされたのだった。

■■■生活の中に番組を組み込む習慣のなさ


ラジオ放送の始まったアメリカの話だと、すでにラジオの段階でジャンルに細分化された「番組」のシステムが確立して、各種ミュージックのほかソープ・オペラ(ドラマ)や子ども向けの番組なんてのもあった。有名なオーソン・ウェルズの「宇宙戦争」のラジオドラマは1938年だ。この頃にコンテンツはもう筋立てて構成されていたし、聞く人たちも決められた時間に決まった番組を聞く習慣ができあがっていた。日々の新聞には、その日のラジオの番組欄が載った。

これに対してカメルーンでは、地方で新聞が見られるのは今も3日後だし、ラジオ欄もテレビ欄もない。あっても機能しないし、人は「何時から何の番組を見よう(聞こう)」という意識に薄い。ラジオで、番組の仕組みが成熟しないままテレビになった。テレビ時代に決定的なのは、停電が多すぎて放送視聴が頻繁に中断することだ。ラジオは電池だから、まだいい。人々は電気を使う機器を生活リズムに組み入れたり、時間が来るのを待ってテレビ番組を見るようには暮らしていない。

しかもグローバルの衛星多チャンネル時代はすぐにやってきた。人々はすでに完成された海外ドラマや映画(フランス語吹き替え)を見たり、国際放送の「TV5モンド」のクイズ番組を見たりするので、国内の番組制作が育つ段階がすっ飛ばされて今に至る。この現象は「黒電話」をすっ飛ばして、「携帯」、もすっ飛ばして「スマートフォン」になっている、のと同じ状況と言える。

「バムン王国テレビ」スタジオ 停電中でまったりスタッフ: 2015年1月

先進国の放送は、スポンサーと広告システムで回るのに対して、カメルーンでは国が強く民間企業が手薄であることを反映して、番組も国の行事関連の話題が多い。先のディレクター氏からは「カメルーンに視聴率ってあるんですか?」とも聞かれ、考えたことなかった。広告は流れてるけど、わざわざリサーチ会社が金をかけて計測するほどの規模ではないので、日本で考えるシステムとはまた違うものなんじゃないかとも思う。

→ バムン王国テレビの活動はこちら

  「バムン王国テレビで活動してます」

→ バイク泥棒がつかまり取材に行く…

  「町のドロボウがつかまった」

■■■テレビの役割


そういうことを踏まえて、テレビは何の役割を果たしているかというと、たぶん「部族の太鼓」としての役割なんじゃないかと思った。国のレベルでは国民国家の形成のために意味を持ち、僕のいたバムン王国の「王国テレビ」で言うと民族意識を高めるのに意味を持つってことだ。

滞在中には「カメルーンはたくさんの部族がある中で、よくここまで一つの国にまとめたものだ」という感慨をたびたびブログに書いてきた。その方法の一つがテレビの放送だったと思う。テレビは疑似イベントの役割をよく果たし、大統領のスピーチや祝日の式典や国民の大行進や、国家的サッカー試合を画面によく映して、国民の愛国心を育てていった。

「バムン王国」レベルでは、それが王室行事であって、僕もひたすら長い式典中継などによく撮影に行っていた。計画性のない「王国テレビ」では式典が長いことが分かっていながら、バッテリーをフル充電して行かないので、式典途中で撮影終了となり「どないなっとるんや~」てことも度々あった。それでも「王国テレビ」は王室行事をずっと映し続ける役割はよく果たした。「皇室アルバム」みたいなもんで、王様はバムンの住民からとてもよく愛されていたのだ。

だから「何のテレビが人気ありますか?」って質問に「そういえば式典中継かな」とも言ったけど、それもかなり納得のいかない顔をされ、人気番組についての話は終わった。仮に「野生の動物を捕獲しに行く番組」でもあれば、それっぽくて面白かったんろうけど、カメルーンでは実際にその辺の人が野生動物を捕まえてきて、路上で売って食ってるので、テレビでそれをやる必要がない。かくもカメルーンのテレビ局事情は、いまだにわかりやすく人に伝えられないので、困ったもんだなーと思ってる。

もう一つ、言うと「部族の太鼓」とした中には直喩の意味もあって、実際に音楽の好きなカメルーンの人びとは、テレビから「民族音楽」の音が大音量で「ぼこぼこぼこ…」と流れてくる、スピーカーが空気を震わすその振動をとても楽しんでいるということも含まれている。テレビが「聴覚メディア」になった、という話を先週書いたけど、さらに「振動を感じるメディア」という可能性もある(カメルーン限定)などと言っても、ほら、また伝わりにくいことが一つ増えてしまって、本当に困ったもんだ。

→ アフリカの仕事の習慣は文字を前提にしていない

  「文字のないアフリカの『見えない化』

→ 異文化の価値を見つける アフリカ紀行

 「イモ子のアフリカ旅ーとほカメラ

イスラーム関連式典に出席する19代目バムン王: 2013年9月

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