下宿の奥さんが、なんか機嫌の悪い声で夫と話している。
その直後に、夫のセレが「水を井戸に汲みに行くから、お前も行くか」と言う。
そうそう、この家にオノが下宿するようになって一人増えたから、何かと水が足りなくなってるのだ。
夫のセレはカメルーンの友人で、彼の家には一ヶ月くらい世話になっている。
町は高原で、家に水道がないから、下の谷まで坂を降りて、川の横のポンプ井戸から水を汲んで、坂の上まで持って帰る。
いつもは近所のガキにこづかいやって水を頼んでるけど、今日は来ないから、水なくなって「あらいやーねー」となったのだった。皿も洗えないし、トイレの水もないと困る。
ちなみにトイレは母屋と別にあって、「ぼっとん和式」になっている。
そういうやつ。日本でも昔の田舎の描写の時によくあるやつだ。オノが子どもの頃のばあちゃんの家のトイレは、まだ汲み取り式だった。
トイレに入る時にプラスティックのやかんを持って入る。何かと思ったら、水でお尻をふくんだって。左手で。
それからというもの俺は左手で尻をふいて、右手でメシを食う男になってるわけですが、それはいいとして水がないと困るわけ。
20リットルくらいの水タンクを持って谷を下る時はいいけど、
これを上まで運ぶのが大変。
重いものを運ぶ時には、アフリカ方式では頭の上に乗せて運ぶんで、
体幹の筋肉を使ってまあ確かに楽だけど、首が痛くなって2、3日筋肉痛になるわけですよ。そんなの何往復もできんし、一日一回やるのも俺はいやだ。
★★★
普通、水くみするのは子どもの仕事で、朝の涼しい時にやるか、夕方学校から
帰ってやるかだ。そういうのを、町の風景として、当たり前に毎日見てる。
最近なんだったかウェブの記事で、「アフリカの子どもたちが水くみにかける
時間を短縮すれば、この子たちは学校に行けるようになります。」とか見かけた。
だから「お金ください」「井戸つくるから」「学校つくるから」とか。これは昔から言われてきた文脈で、なんとなくそうかな、と受け入れやすいし、
確かにそういうこともあるでしょう。
だけど普通に暮らしてると、子どもたちが朝と夕に水をはるばる汲みに行くのは、ぐるりつながってる生活全般の輪の一つであって、
「そこ一個だけ変えて、どうする?」とかなんか思うわけ。俺はね。
たぶん人間の生き方はその条件条件に適応してるんで、乾季には4ヶ月雨が降らないとか、アフリカの赤土はがちがちで、立ちションすると土にしみこまなくて川となって自分の足元まで戻ってくるとか、いろんな環境の条件が、その土地で暮らす生き方をすでに最適化させてるんじゃないかと思う。
なので「アフリカの子どもたちは困ってるから助けましょう」とか言われると、
俺は多少不機嫌な気持ちになる。別に困ってもないだろ。
たとえば「心臓が右にあって生まれてきた人」がいたとして、「手術して左に
移動させましょう」っていうみたいなもんじゃないのか。
俺がブラックジャックだったら、「それで回ってるんだったら、そのままほっとけ」っていうと思う。
心臓が左か右か、たまたまそうなってるだけで、どっちでもいいんじゃないの。
前回の協力隊は「困ってる途上国の人たちを、ヒーロー日本人が助ける」っていう文脈で教えられてきたから、実際に住んでみて
「いや、そうじゃないだろ」ってのが結論として残った。
日本人はヒーローでもなんでもないし、ここの人たちは自分たちで何とかやってる。
アフリカに限らずだけど、途上国を「欠如態」として見るのは、政治とか経済とかから見るといいかしれんけど、俺はもうそういうのやめにしたい。
★★★
俺は水のない下宿で水使うの悪いなあ、って思って今までシャワー、でなく
やかん半分くらいで、ぴちゃぴちゃ水浴び3回くらいしかしてない。
あと「奥さん、洗濯したいんだけど水ありませんか?」とか言いにくいのね。
うまく生活の輪の一つになるには、水を少なく使うか、もし多く使うんだったら
「自分で汲みに行けよ」という話だ。俺としては、20リットルのタンクを頭に乗せてはるばる坂を登っていく状況は絶対に避けたいところだ。
だから、水を少なく使う方を選んでる。
ちなみに、シャワー浴びない記録は前回の協力隊の時の「3週間」という金字塔があって、それはまだ抜いてない。どんな自慢だよ。
→「アフリカ人は飛行機の中で粥食って下にボタボタこぼす」
(写真=日曜日にゴム飛びして遊ぶ近所の子どもたち。飛べると
ゴムの高さを上げて段々難しくしていく。)
→コジキに会えば金をやり 会わなければ金をやらない協力隊
→青年海外協力隊的あるある 1年して絶望で寝込む
→青年海外協力隊的あるある 1年6ヶ月 アンテナ立て国際放送見る
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→青年海外協力隊の体験を小学生に説明する
*初出:2017年1月13日