大学生のメディア・マップ2018

気がつくと暖かくなって、町中につつじの花が咲いている。

これまで気にしたことがなかったけど、いったん意識するとなんだかそればかり目にいくんで、気がつくとさりげに庭にも生えてるし、道路脇のあらゆるところにつつじが植わっているのだった。

花の色は控え目で匂いもなく、ずいぶん地味なやつだなと思う。

その人目のひかなさとか、たぶん手入れのしやすさなんかで、

いつの間にか僕らの生活世界に入り込んで「環境」の一部となっているんだなあ、などと思う。

■■■メディアを分類してみる

4月から「メディア論」の授業を大学でやることになって、

初回は「メディアってな~んだ」って、僕らの当たり前の「環境」になってるメディアのことを意識して分類してみようってワークをやった。それを見てると、いまの若い人世代が見ている “メディア・マップ” みたいなものが見えて、とっても面白かったのだ。それは僕らが自然だと思ってるメディア・マップから、ずいぶん違うものだった。

基本的には、テレビと、YouTubeと、SNSが同格扱いっつうか、おなじ土俵のものとして認識してる。さすがデジタル・ネイティブだな。上の世代は、テレビを旧来メディアとして捉え、YouTubeをテレビとの比較で<新しい-古い>で捉えてしまうのだけど、彼らは、そういう対立軸を持っていない。当然だけど、生まれた時から新しいも古いもなく、両者ともあるようにそこにあったわけで、おなじように受容してるわけだ。

むっちゃ面白いのは「メディアの分類」で、「テレビ」または「映画」のことを<聴覚(聞く)メディア>と分類しているグループが多かった。
この「メディアの分類」ってワークは、
「分類枠組みを好きなように考えて、メディアを分けてみよう」
とするものなんだけど、あらかじめ例として「視覚、聴覚、触覚とか五感で分類するなど・・」と言ってあったので、それにならったものだ。

「テレビ」を<視覚(見る)メディア>と分類していたグループもあって、それは自然だと思うのだが、<聴覚(聞く)メディア>だとしたのも実は10グループ中、3グループいたのだ。

つまり、彼らは「テレビ」を「見て」もいるけど、「聞いて」もいるという意識を持っている。もっと言うと、たぶんスマホをやりながら音声を聞いてるんだと思う。もはやテレビは、映像の力で見せるとか、モンタージュによって構成を作るとかよりも、芸人が面白いトークをするだけの話芸の媒体になって久しいけど、そういう状況と符号して、若い人にとっては「テレビを聞きながら、スマホをする」という新しい受容体系ができているんだなーということが分かる。

■■■<マスー個別>が融解、「人」そのものへ

<新しい-古い>という比較軸がないように、<マス-個別>という比較軸もあんまりない。そういう分け方をしていたのは1チームだけだった。ちなみに<個別>のメディアには「口コミ、5ch、うわさ、おしゃべり好きなおばさん…」などが挙げられていて、これは僕らの世界観と割と似ている。

<マス>に代わって出てきた概念が、<回線を使う>っていうものだ。不思議な概念だけど、この中に「テレビ」と「SNS」が入っている。いろんな見方ができるけど、”回線”っていう物言いのニュアンスに、「なにかブラックボックス的なトンネルを通って、情報を交信する」っていう「不透明感」があるような気がする。

<個別>ってのが上記の、直接的な人の対面が意識されていることに比べて、回線を通っているうちに、不純なものが入ってくる心象を感じることができる。昨今の不信感満々の「テレビ」とか何かと怖い「SNS」とかを、”自分の手には負えない場所”として同値に捉え、そことつながる感覚が<回線を使う>っていうことなんじゃないか。

さらに、そういう不透明なものと逆に、直接的で、信頼できる感覚を表わす概念を発見することができる。その一つが、<人>という分類だ。

<人>に分類されているのは、あるグループでは「ライブ、スポーツ、会話」。また違うグループでは「アナウンサー、レポーター、記者、評論家」、ほかに「演劇」などが挙げられていた。<人>に注目するグループは多かった。

これには2点着目すべきところがあるように思う。一つには、続いている”メディア不信”の源にあるマス・メディアの構造とかシステムの問題と切り分けて、画面に出る人を見ていることにある。

その分ける基準が、たぶん”人そのものは信頼できる”(または”信頼したい”)ということのように見える。僕らの時代の感覚だと、アナウンサーも記者も、テレビ局や番組のメンバーであって独立した存在ではないし、今も事実そうなんだけど、彼らの意識の中では、どうやら「人が前景化する」時代になっているみたいだ。

もう一つには、<人>の項目に選ばれた人たちは、全て旧来メディアの職業であることだ。報道に関係する「アナウンサー、レポーター、記者」または芸能関係の「ライブ、演劇」そして「スポーツ」が挙げられている。にもかかわらず、あれほど「テレビ」と同格としてきた、

「YouTuber が挙げられていない」

ことに、自分はびっくりした。そして非常に重く見ている。やや結論から言うと、それが「信頼感」という軸であるような気がする。旧来メディアの構造やシステム自体は、「大人がいじくり回していてよく分からない」ものと考えているけれど、そこに出る人たちが「なにか訓練された技能を使って仕事している」ことは、評価している。そして、その枠の中にはYouTuberが入っていないことに、彼らのメディアを巡るコンテンツの受容の心象が表わされているように思う。

YouTuberは何かと僕らオヤジ世代にとっては楽しみにくいし、若い世代にとってはまだ語る言葉がないため、世の中的な理解が遅れている。初回では「メディアとはコミュニケーションを媒(なかだち)するもの」としたところで、そんじゃあ「YouTuberは、何を媒しているのか」という問いが立ったので、また学生と一緒に考えていきたいところだ。 (つづく)

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