2015年 仏「シャルリー・エブド襲撃事件」をカメルーンで見る

またもや世界中が悲しみに包まれている。

ので、胸が詰まってたまらない思いがする。これは、一連のフランスの週刊紙のテロリズムのことなんだけど、放送局「フランス24」ではいまだに8割くらいの時間をこのニュースに割いている。

これだけニュースが世界的になったので、たぶん日本の方が情報にアクセスするのが簡単だとは思うけど、どんなふうに報じられているんだろうか。

「フランス24」でも、イスラーム諸国の抗議行動が報じられるようになった。

秒数は少ないですね。

アルジェリア。30秒。ニジェール。写真だけ。

モーリタニア・イスラム国。10秒。ヨルダン。5秒。

イラン。5秒。トルコ。30秒。

別に、セネガルでは「シャルリ・エブド紙」が発行禁止になったというニュースにも触れた。

これって、なんなのかって深呼吸してみる。

いろんな経緯を経ていないのでアレですが、イスラム教徒にとっては、とっても大切なことはものすごくとっても大切にしているので、それをレスペクトしないと、他人を傷つけることになるってことはちょっとイマジネすればすぐわかる。

鎖国時代の日本人が、イエスを踏み絵したら、そりゃあキリスト教徒も怒るってもんですよ。

つまんないこと言いたくないけど、イスラームの教義には人を殺していいなんてものはなくって、たまたま、この宗教には異端のテロリストがいるだけだ。キリスト教の歴史を見てみると、中世には十字の旗を持って、徒党を組んで他国に攻め込んだし、ちょっと前のアメリカ南部では、白いとんがりの帽子をかぶって、徒党を組んで黒人の家を焼いた。

これは、それぞれの宗教の「憎しみ」とか「排除する力」とかの出かたの違いであるだけだ。

仏教ってどうなのかって思うと、実はちょうど20年前に“異端仏教系テロリスト”のオウム真理教が、とんでもないテロを起こした。日本では、これをもっぱら社会的な問題としてとらえていてあまり宗教的な問題としてはとらえていないけど、少し考えてみたい気もする。

まもなく日本では、オウム真理教を検証する番組がたくさん放送されるだろうけど、常に、そういうのは忘れずに検証していかんといけない。

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これは別のところで言おうと思ってたんだけど、おれの個人的な話で、ここに来てから

「憎しみ」という感情を強く感じる

ようになった。一人の日本人が、とても遠く離れた土地に住んで、町の人から毎日さんざん差別的で、人間の尊厳を軽蔑するような対応を受けて、本当に、おれは「人を憎しむ」という感情を覚えたよ。

今、そのことがパブリックに言えるというのは、今は、そういう最悪の状態を脱して、だいぶマシになったからだ。

おれがどこかの国の空軍兵士だったとしたら、この町を爆撃して、焼き尽くしたい、と、どれだけ思ったか。

人を憎しむ、というのは、ものすごい感情だ。

だから、おれは、深呼吸して、そういう感情を、昇華していかないといけない。

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だからね。おれは思ったの。

文化とか、考え方とか、宗教とかね。違う人が、本当には通じ合えないんじゃないか。教訓としては、おんなじ町に住んでいたとしても、カルティエ(居住区)を別々にして、互いに干渉しないように住み分ける、っていうのが知恵だっていう気もする。

前にマレーシアに行ったときに、マレー系(イスラーム)、中華系(中国メランジェ教)、インド系(ヒンドゥー教)が、別々に干渉することなく暮らしており、学校も別々で、教科書も別々で、ってことに、ものすごくカルチャーショックを覚えたけど、そういうことが、逆に、知恵だっていう気もする。

「世界人類が平和でありますように」って言いながら、人類はケンカしちゃうんだもの。だめだこりゃ、ですよ。

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なにとはなしに「Je suis Charlie」「Je suis Charlie」

(わたしはシャルリー)ってつぶやいてみる。

イスラーム諸国の抗議行動では「Je ne suis pas Charlie」

(わたしはシャルリーじゃない)と言っている。

おなじみのラジオ制作主幹から「君は Tu es charlie なのか?」って聞かれるので、そりゃあ、ジュ・ヌ・セ・パ(そんなの、知らん)って答えてる。

*初出:2015年1月17日(金)

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